| 仏教の開祖であるお釈迦さまは、インド北東の釈迦族という種族の出身でした。「釈」という文字は、お釈迦さまの「姓」である「釈迦」の省略です。仏教に帰依して、真の真宗門徒になるとき、「釈迦」すなわち「釈」を姓とする者となるのです。つまりお釈迦さまの一族に加えられ、お釈迦さまのお弟子となって、仏弟子としての新たな歩みを始めるわけです。 |
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「釈」の姓を名のった仏教徒
仏教徒が「釈」の姓を名のるようになったのは、四世紀の中国に始まります。そのころ中国にはインドの仏教が次々と入ってきていました。中国仏教の初期に活躍した道安(312〜385)という僧侶は、新思想であった仏教を本格的に理解し、多くのすぐれた弟子を育て、仏教僧団の形成に大きな功績をのこした偉大な傑僧でありました。
道安は、仏教僧の師は釈迦仏であるから、僧侶はすべて釈をもって姓とするべしと唱え、自ら「釈道安」と名のりました。経典にも、
四河は海に入りて、本の名字もなく、同一味の海水となる。四姓また如来のところにおいて、出家学道せば本姓なく、沙門釈迦子と称すべし。
とあったことから、出家僧侶は「釈」を姓とするようになったのです。
しかし、この伝統は中国においても日本においても、積極的に受け継ぐ僧侶もあれば、そうでない人もあったようです。真宗七高僧の第四祖・道綽禅師は「釈道綽」と名のっておられますが、真の仏弟子として自覚的に「釈○○」と名のった人は多くはありません。その伝統は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人において再び明確に受け継がれました。 |
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「釈親鸞」と名のられた親鸞聖人の伝統
宗祖親鸞聖人は、青年時代には「釈綽空」と名のられ、のちには「釈親鸞」または「愚禿釈親鸞」となのられました。このように、宗祖親鸞聖人になって「釈」の姓を名のるということが、真宗門徒の法名の伝統になっています。
「釈」の字を頭において姓となし「法名」としているのは浄土真宗だけです。真宗以外の宗旨では、「戒名」に「釈」の文字が入ることはないのです。「釈」を姓として名のることができる仏教者の本来の精神であり、とくに親鸞聖人に至ってあらためて見い出され、重んじられるようになったことは、意義の深いことです。 |
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真宗では戒名とはいわない
真宗では「法名」といい、「戒名」という言い方はしません。仏教徒の戒律の基本は、不殺生戒・不偸盗戒・不邪淫戒・不妄語戒・不飲酒戒の五つですが、真宗ではそれらの戒を授けるという「授戒」、または戒律を受けるという「受戒」ということがないからです。
ですから真宗では「戒名」という言い方は決してしないのです。 |
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生前にいただく法名
帰敬式(おかみそり)を受けて
死後に法名をつけてもらうのではなく、生前に法名をいただくことが大事です。世間ではこれを「逆修」といって、生きているうちに自分のための仏事を営むことの意味にとり、そのほうが健康で長生きができるのだと誤った理解をする人もありますが、これは「逆修」などではなく、大いに流布させなければならない正当なことなのです。
「法名」をいただくためには、本山において、または住職から「帰敬式(おかみそり)」を受けて、そこでいただくことになります。近年、真宗の各本山では門徒の人たちに、生前に法名をいただく運動をすすめています。そのときにいただく法名も、手次ぎの寺院住職があらかじめ俗名などを考慮して文字を選択し、それを本山に申請するというシステムです。
「帰敬式」とは、心身あげて真宗の教えに帰依し、教主釈尊のお弟子となることを誓うという儀式です。具体的には「三帰依」といって、仏・法・僧の三宝に至心に帰依するということを誓うこと、すなわち、
自ら仏に帰依したてまつる
自ら法に帰依したてまつる
自ら僧に帰依したてまつる
を実践していくことを決意することをいいます。
この場合、「仏」は釈迦仏、「法」は阿弥陀如来またはその如来の精神を開顕した浄土真宗の仏法、「僧」は個人的な僧侶のことではなく、僧団を意味していて真宗教団を指します。
世間では、法名は死んだ人につけるものばかりと考えられていますが、仏教徒であり真宗門徒であることの自覚をもつために、生前に「帰敬式(おかみそり)」を受けて、「法名」をいただいておくことが本来なのです。
ただ生前に受式の機会のなかった人には、死亡のとき住職が法名をつけるということかが例となっているため、死んでからつけてもらう名前という考えが一般化してしまっているわけです。 |
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法名を名のって生きる
本山などで「帰敬式(おかみそり)」を受けていただいた「法名」は、仏法に帰依し仏弟子となろうという決意と自覚をあらわす名前です。キリスト教のクリスチャンネーム(洗礼名)に対して、「ブッディストネーム」ともいうべきものです。
これは、お釈迦さまの一族・弟子となって仏法聴聞に励み、お釈迦さまと親鸞聖人の開かれた世界を自覚的に生きていこうと、はっきりと心に決めた者の、名のりの名前なのです。「釈迦如来・親鸞聖人の弟子として生きる念仏者となる」こと、これが「法名」をいただいて生きるということの意味です。
この自覚なくして、死んだときの法名をもらったので安心、と極楽行きの切符を手に入れたようなつもりでいては、「帰敬式(おかみそり)」で三帰依を誓ったことの意味がないといわなければなりません。
実際には、自分の俗名とは別に法名の名前を使ってもよいでしょうし、まったく法名に改名するということもよいでしょう。作家の瀬戸内晴美氏が出家をされて、瀬戸内寂聴と名のられているようにです。
しかし、「法名」を名のるということは、他人に対してそれを誇示することであってはなりません。本願寺第三代の覚如上人が『改邪鈔』のなかで、
優婆塞(在家の男性信者)・優婆夷(在家の女性信者)の形体たりながら、出家のごとく、しいて法名をもちいる、いわれなき事。
といわれ、在家の信者のすがたをしていて、出家者のように法名を用いるのは問題であると教えられているのも、自戒の言葉として心得ておくべきでしょう。 |
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故人に法名を贈る
俗名を法名に替える意味
真宗の門徒が亡くなったときには「法名」をつけます。「俗名」のままでなく「法名」に替えるわけです。これは亡くなった人がこの世での生涯を終えて、浄土という仏の世界に生まれ変わっていったことを示しています。
真宗門徒は、いのちが終わると同時に、仏の世界に生まれ、阿弥陀如来と同体さとりを開くと教えられてきました。真宗においては、亡くなった人は迷える亡者などではなく、諸仏一員である仏さまなのです。この世との境涯を異にして、諸仏としての存在になられているために、名前も「法名」を用いるのです。
世の中には法名無用論をとなえて、俗名でよいと主張する人があります。しかし、亡き人は諸仏となられているのですから、俗名のままでよいというわけにはいかないでしょう。改めて「法名」をつける意味がここにあるのです。
「法名院号大鑑」(法蔵館)より引用 |
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